産業保健コラム
今坂 一郎
所属:
専門分野:シニア産業カウンセラー
日本語という言葉について感じること
2023年12月1日
ひと昔前には、読み書きそろばんといわれて、日本語では読み書きが重んじられ、話すことは軽く扱われていました。もっぱら日本語での読み書きと話すことしかできないのですが、日頃から日本語という言葉の特徴や不可思議さを感じています。漢字とひらがなに加えて、近年目につくカタカナの多用と言葉の短縮化にも戸惑っています。
例えば「情報」「インフォメーション」という言葉です。「情」には情味や情けの意味があり、「報」には報いるという意味があるにもかかわらず、メディアなどで「情報社会」と合成して使われる状態に違和感を抱いています。また一人称についていいますと、英語でしたら「I」の一語で済まされるのに、日本語では「私」「僕」「我」「自分」などと多種類が使いわけされ、しかもほとんどの場合は主語がなくても通じています。
欧米の言葉は、事実と言葉との関係が密接であり、裁判でも証言した言葉が強く証拠として扱われ、法律や公文書が大切にされます。しかし日本語で事実を正しく伝えようとする場合、事実よりも心情すなわちどう思っているのかが重んじられ、前後の関係や連想なしに伝えますと誤解されてしまうことが多いです。言葉と言葉を使う人の関係も重視されますので、事実を確認する言葉としては使いにくいです。
「AはBである」というと、断言し過ぎる、言い方が良くないと批判されます。書き言葉と話し言葉の間には「だ、である」と「です、ます」という違いがあって、話し言葉で客観的に事実を伝えるのは容易ではありません。国会などで官僚の書いた原稿を読む政治家の姿を眺めていますと、心情のずれを感じます。また最近の新聞記事やテレビ放送を見ていても、ウクライナやガザ地区の具体的な状況が見えてきません。
国際社会のただ中にあって、日本語の持つ特性のことをしばしば考えます。言葉には暗示感化力があることを実感するため、日本や日本人のあり方へと妄想が広がります。上述したことは、カウンセリングにおける課題の一つとも捉えています。深遠なテーマを取りあげたうえでの断片的な記述に過ぎないことをお詫びします。
今坂 一郎