産業保健コラム

古海 勝彦


所属:日新電機(株) 総括産業医

専門分野:産業医学

自律的化学物質管理とプロフェッショナル

2025年4月1日

令和4(2022)年に公布された新たな化学物質規制が、本格施行となってまもなく1年になります。長く続いた法律準拠型から自律的な管理へというパラダイムシフトは、化学物質を取扱う事業場や担当者に大きな動揺と業務負荷を与えることになりました。工場内には古い掲示の間に新しい掲示がいくつも貼られ、天井近くまで達している作業場もあり、老眼と乱視の目には視力検査よりも厳しいものになりました。かつて印刷工場の産業医をしていた時に、仕事が終わって床に付いたインクをウエスで拭き取っている作業者をよく見かけました。腰を曲げきつそうな姿勢で床を拭いている手には、アセトンの容器が握られていました。「それ、ダメじゃない」と注意をすると「これだと良く落ちるんですよ」とお決まりの言葉が返ってきました。ある日、「朝起きたら右手の皮膚が赤く腫れていた」と若い社員が診療所に来ました。手首と肘の間に帯状に広がった紅い腫脹は、作業着の袖に付着したインクの場所にピタリと一致しました。
令和2(2020)年から特殊健康診断において「作業条件の簡易な調査」が行われるようになりました。「化学物質の使用頻度」「取扱量」「使用している保護具」などを尋ねるものですが、保護具の選択肢の中に「ヘルメット」「墜落制止用器具」がありました。まさかとは思いましたが、有機溶剤を扱っている作業者が、なぜか「ヘルメット」を選択しているのには驚きました。選択肢に関係のない保護具を入れているのはトラップだったのでしょうか?厚生労働省が危機感をもって行った今回の改正は、今後どれだけの成果を上げるのでしょうか?一般の作業者が触れることのない有害物質を、毎日のように取り扱う有害業務作業者は、プロであって欲しいと思います。ハレの日に訪れる和食店の板長は、素材の産地や栽培方法、名前の由来まで色々なことを教えてくれます。最近、リニューアルされた「プロフェッショナル仕事の流儀」では、最後に「あなたにとってプロフェッショナルとは?」と問いかけます。プロフェッショナルとは「能力が高く、技に優れ、(その仕事に)確かさがある」「専門的な仕事に従事している人、専門的な仕事で評価を得ている人」とされていますが、有害業務従事者には、有害物質を扱うプロであって欲しいと思います。忙しいからと包丁をぞんざいに扱えば、自らに傷を負うことになります。プロはどんなに忙しくても、決めたやり方を変えません。名店の壁には掲示物は貼られていません。掲示物など見なくても、扱っている化学物質の名前は勿論、危険性や応急処置をスラスラと言えるようになって欲しいと思いながら、新しく貼られた掲示物を見つめる毎日です。

古海 勝彦